こうして終戦工作は失敗した [歴史]
スイスを舞台にした終戦工作は有名だ。1945年時点では、他にもいくつかの交渉が密かに行われたようだが、結果的に全て失敗した。
早期終戦の可能性があったにもかかわらず、東京の判断が間違っていた(あるいは遅すぎた)ため、原爆投下、ソ連参戦へとつながって結局日の目を見ることは無かったケースが多い。
要は現場の状況を本部が正しく認識できず、しなくていい失敗をしてしまうという今日にも通じる話だ。
[日本政府主導のもの]
小磯国昭内閣下で南京国民政府高官の繆斌(ぼくひん)を仲介とした蒋介石政権との和平交渉(重光葵外務大臣が繆斌を信用せず頓挫)
鈴木貫太郎内閣の外務大臣東郷茂徳による、当時まだ中立国だったソ連を仲介とする和平交渉
[中国側との個別交渉]
燕京大学学長ジョン・スチュワートや上海市長周仏海を仲介者とする和平工作
日本軍今井武夫参謀副長と中国軍何柱国上将との和平協議
水谷川忠麿男爵(近衛文麿異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作
[ヨーロッパでの個別交渉]
スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作
小野寺信駐在武官もナチス・ドイツの親衛隊諜報部門の統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共にスウェーデン王室との間で独自の工作
スイスにおけるアメリカ戦略事務局(OSS)のアレン・ダレスを仲介者とした岡本清福陸軍武官・加瀬俊一公使や藤村義朗海軍武官らによる和平工作
ちなみに、このアレン・ダレスは戦後創設された中央情報局(CIA)の初代長官になった人物。終戦工作の中で最も有名で、かつ最も可能性があったのはダレスとの交渉と言ってもいいだろう。
なぜなら、他の交渉はいずれも仲介者を介したものだが、ダレスとの交渉は直接アメリカと行うものだったからである。
東郷大臣はソ連との和平交渉を重視。しかし、ソ連はヤルタ会談で対日参戦を決めており、日本に交渉するそぶりを見せていたのは対日参戦準備のための時間稼ぎが目的だった。
すでにソ連の対日参戦の情報がもたらされていたにもかかわらず、それを軽視した結果、誤った判断をすることになった。
一番期待していた相手が裏切る気まんまんだったのだから、成功するわけもない。
交渉は「どのように交渉するか」も重要だが、「誰と交渉するか」も同じように大事だ。
ソ連参戦前、日本は主にアメリカ、中国と戦争していた訳だが、可能なら当事者と直接やり合った方が良いはずだ。
仲介というのは当該国が直接交渉を拒否している場合や、物理的に連絡手段が閉ざされているといった場合にのみ使うべきだ。
終戦工作に対中、対米のものがあるのは、直接打開を図ろうとする人が少なくなかったためと思われる。
それを敢えて参戦の可能性があったソ連を相手に選んだのは最悪の選択だったと言わざるをえない。
昭和20年9月2日 戦艦ミズーリ降伏文書調印式(カラー)
1945年5月のナチスドイツ降伏後、ソ連が大量の兵器をシベリア鉄道を使って極東方面に移動しているという情報は、日本に入ってきていた。
そもそもヤルタ会談の内容自体、日本側は掴んでおり、もう一刻の猶予も無いことは明らかだった。
にもかかわらず降伏という決断ができなかったのは、軍部や政府内での意思決定が迅速にできなかったからである。
残念ながら、この傾向は今だに日本に根強く残っている。
ぐずぐずと議論(という名の儀式)を重ね、合意を確かめ合って初めて行動するという悪癖。
こうしたことを繰り返していると、「何が正しいか」「どうあるべきか」よりも、「どうすれば全体合意が得られるか」や「和を乱さないか」といったことの方が優先されてしまう。
そうした変な癖をいい加減改めないと、これからも同じ轍を踏むことになるだろう。
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早期終戦の可能性があったにもかかわらず、東京の判断が間違っていた(あるいは遅すぎた)ため、原爆投下、ソ連参戦へとつながって結局日の目を見ることは無かったケースが多い。
要は現場の状況を本部が正しく認識できず、しなくていい失敗をしてしまうという今日にも通じる話だ。
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終戦工作の数々
[日本政府主導のもの]
小磯国昭内閣下で南京国民政府高官の繆斌(ぼくひん)を仲介とした蒋介石政権との和平交渉(重光葵外務大臣が繆斌を信用せず頓挫)
鈴木貫太郎内閣の外務大臣東郷茂徳による、当時まだ中立国だったソ連を仲介とする和平交渉
[中国側との個別交渉]
燕京大学学長ジョン・スチュワートや上海市長周仏海を仲介者とする和平工作
日本軍今井武夫参謀副長と中国軍何柱国上将との和平協議
水谷川忠麿男爵(近衛文麿異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作
[ヨーロッパでの個別交渉]
スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作
小野寺信駐在武官もナチス・ドイツの親衛隊諜報部門の統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共にスウェーデン王室との間で独自の工作
スイスにおけるアメリカ戦略事務局(OSS)のアレン・ダレスを仲介者とした岡本清福陸軍武官・加瀬俊一公使や藤村義朗海軍武官らによる和平工作
ちなみに、このアレン・ダレスは戦後創設された中央情報局(CIA)の初代長官になった人物。終戦工作の中で最も有名で、かつ最も可能性があったのはダレスとの交渉と言ってもいいだろう。
なぜなら、他の交渉はいずれも仲介者を介したものだが、ダレスとの交渉は直接アメリカと行うものだったからである。
ソ連に固執した日本政府
東郷大臣はソ連との和平交渉を重視。しかし、ソ連はヤルタ会談で対日参戦を決めており、日本に交渉するそぶりを見せていたのは対日参戦準備のための時間稼ぎが目的だった。
すでにソ連の対日参戦の情報がもたらされていたにもかかわらず、それを軽視した結果、誤った判断をすることになった。
一番期待していた相手が裏切る気まんまんだったのだから、成功するわけもない。
交渉は「どのように交渉するか」も重要だが、「誰と交渉するか」も同じように大事だ。
ソ連参戦前、日本は主にアメリカ、中国と戦争していた訳だが、可能なら当事者と直接やり合った方が良いはずだ。
仲介というのは当該国が直接交渉を拒否している場合や、物理的に連絡手段が閉ざされているといった場合にのみ使うべきだ。
終戦工作に対中、対米のものがあるのは、直接打開を図ろうとする人が少なくなかったためと思われる。
それを敢えて参戦の可能性があったソ連を相手に選んだのは最悪の選択だったと言わざるをえない。
昭和20年9月2日 戦艦ミズーリ降伏文書調印式(カラー)
正しい情報を正しく評価するには
1945年5月のナチスドイツ降伏後、ソ連が大量の兵器をシベリア鉄道を使って極東方面に移動しているという情報は、日本に入ってきていた。
そもそもヤルタ会談の内容自体、日本側は掴んでおり、もう一刻の猶予も無いことは明らかだった。
にもかかわらず降伏という決断ができなかったのは、軍部や政府内での意思決定が迅速にできなかったからである。
残念ながら、この傾向は今だに日本に根強く残っている。
ぐずぐずと議論(という名の儀式)を重ね、合意を確かめ合って初めて行動するという悪癖。
こうしたことを繰り返していると、「何が正しいか」「どうあるべきか」よりも、「どうすれば全体合意が得られるか」や「和を乱さないか」といったことの方が優先されてしまう。
そうした変な癖をいい加減改めないと、これからも同じ轍を踏むことになるだろう。
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